はせこうブログ

読んだ本、日常の体験から考えた内容を纏めていくブログです。宜しくお願いします。

野心のすすめ、読破

林真理子さんの「野心のすすめ」という本を読み終えました。林真理子さんは「ルンルンを買ってお家に帰ろう」がベストセラーに、その他多数の著書がある作家です。本書では「有名になりたいからってあそこまでやる?」と揶揄されたこともある林さんがいまの若者たちの「野心のなさ」に対してもの申す作品です。

 

確かに

林さんの提言は賛同できるものが多数あります。例えば気になった台詞は「身の程より上を目指してみる」「チャンスがあれば、挑戦してみる」「出来る限り上を目指して努力する人生であってほしい」等です。でも一番気になったコメントは「時には一人で泣いたり、徹底的に落ち込んでみる必要があります」です。この台詞を読んだとき、野心がある人とない人の差はここかなと思いました。自分が周りの人と比べて野心があるのか、ないのかはわかりませんが、就職活動を通じて志望する企業に落ちてもケロッとしている奴が結構多いな、という印象を受けました。進路相談室でもとにかく「志望企業に落ちても落ち込むことなく、頑張ってください。」と言われました。でもそれってはっきり言ってありえないと思います。志望企業に落ちて落ち込まないのだったら、それは志望企業とは言えないです。それに悔しい思いって人の成長にとても大切だと思います。例えば大学入学で満足な結果が出ず、それに不満を持つからこそ、次の就職活動では頑張ろうと思えると思います。常にその結果で満足してしまってはずっとそのレベルに留まり続けることになってします。

 

でも

なんか読んでいて、「林さんってプライド高そうだな」っていう雰囲気がガンガン伝わってきます。もちろんプライドは非常に大切ですがちょっとやり過ぎかなっていう気はします。好きな人と嫌いな人がハッキリ分かれる作家なんじゃないかなと思います。

 

伊勢神宮遷宮を巡って

本書には伊勢神宮遷宮に対しての林さんの見解が述べられています。以下抜粋です。

「ところで、日本の男性は、女性が若ければ若いほど尊ぶのはなぜだと思いますか。伊勢神宮は二十年に一度の「式年遷宮」で社殿を建て替えますが、私は、そこに日本人の精神世界が凝縮されていると考えています。二十年経ったら、すべて取り替える。あのしきたりが残っている以上、白木の清々しさを最上としたり、「女房と畳は新しい方が良い」というメンタリティは変わらないでしょう。我が国に男性たちは、古くて良い建物ほど大切にされる西洋とは真逆の価値観を持っているのです。」

これを読んだとき中々面白い分析をするなと思いました。僕がブログを初めてみようと思ったきっかけであるちきりん氏は伊勢神宮遷宮の理由について技術伝承のためという分析をしていました。木造建築で火災に弱く、地震も多い日本では建物がいつまでも残るということはなかなか期待できません。そこで二十年に一度遷宮をすることで、最初に一番下っ端として工事に従事、二十年後には管理職的な立場として、その二十年後には親方的立場として工事に関わることで、技術を永遠に継承でき、想定外の事態で社殿に問題が生じた際にも対応できるというわけです。同じ現象でもここまで見解が違うのは面白い。ちなみに僕はちきりん氏よりです。

 

僕の考えでは、女房が新しい方がいい理由は、(昔は)嫁いできたばかりの女性は男性に対し従順でしたが、連れ添う期間が長くなるとだんだん色々文句を言うようになります。文句を言われるのは嫌なので、うるさくなってきたら、新しい、従順な女性に取り替えようということでは。

 

色々書きましたが、野心はとても大切だと思います。僕も少しでも良い収入、良い暮らしを目指して頑張ります。

 

そんな感じ。

 

野心のすすめ (講談社現代新書)

野心のすすめ (講談社現代新書)

「未来の働き方を考えよう」、了読

 ちきりんさんの最新刊、「未来の働き方を考えよう」を読み終えました。感想を一言で表すと「オレ、アウト!」です。この本にはこれから先、多くの人の働き方がどのように変化していくのかの予想が書いてあります。これから先定年はどんどん長引き、70、80まで働くことが予想されること、また著しい高齢化が進む先進国では革新的な製品やサービスは生まれなくなり、世界の主流は現途上国に移ることなどが主な予想の内容です。そして80まで働き続ける社会が現実になれば、新卒で入った会社で延々と働き続けることは現実的ではなく、40代で転職、または独立、または早期隠居モードになり、自身が望む人生を生きられるという旨が書かれています。また終身雇用というシステムが人から自分自身の望む人生を考える機会を奪っているとも述べています。

 

俺は大丈夫か?

 さて、本書は僕の頭をガツンと叩いてくれたと思います。僕はこの春に就職活動に取り組み、ラッキー?なことに希望する業界の大手から内定を頂けました。その瞬間僕が考えたことは「よし、これで人生安泰!」です。そして会社からTOEICと簿記を勉強するよう言われたので、それだけやっておけばいいや、と考えたのでした。本書はそんなおバカな学生を正気に戻してくれます。近年の学生の就職の傾向や、大企業を三年でやめる人たちのエピソードも交え、はたして大企業で頑張り続けることで何が手に入るのか。会社から要求されることばかりを唯々諾々とやって、他に何もしないとどうなってしまうのか考えさせくれます。

 

社会はどうなる?

 また個人的な環境の話だけではなく、前述の通り、これから先社会がどう変わっていくかも合わせて考えることができます。上記の通り、僕は内定をもらった時点で「やったー、僕勝ち組」と考えていたおバカさんなので、思考停止していましたが、これからもその会社が大手であり続けることはないし、つーか日本自体がかなり終わってる。仮に僕が80歳まで生きると2070年、その時僕は日本に住んでいるのか?僕が日本にしがみついていたとしても、子供や孫はとうに日本を見切り、他の国で暮らしていると思います。そんな老人しかいない、一国丸ごと老人ホームみたいな国で何をするのか。そういうことを考慮すればどこかで意識的に将来の選択をしなければならないでしょう。そして本書はそれを40代で行うべきとしています。これは僕にとって非常に同意できる考え方です。ちきりんさんは色々と実用的な観点から40代とおっしゃっていますが、僕には全く違う観点から40は第二の人生のスタートだと思っています。以前本川達雄さんの著書、「生物学的文明論」を読んだ時、生き物は平均して心臓が15億回鼓動すると寿命を迎えるよう設計されており、人間は約40歳で15億回を迎える。だから、40以降の人生は科学技術に生かされているサイボーグゾンビ状態なのだと学びました。だから40までは全力で生きて、40からはその時の状況を鑑みて、一番良さげな人生を選択しようと思っていました。本書を読み、その考えは一段と強くなりました。

 

これからどうする?

 僕より数年早く社会に出た先輩、同級生たちは早くも会社をやめたがっている人、やめた人がかなりの割合でいます。もったいないなーと思っていましたが、案外彼らは賢明かも知れません。ちきりん氏の他の本に「人生は、仕事、家族、趣味の中から二つを選ぶ」という旨の文章がありましたが、僕の思考停止せず、自分の将来の可能性についてしっかり考え、意識的に選択をしなければという思いを強くすることができました。とりあえず、会社という組織を相対的に考えられるように第二収入源をどうやって確保するか考えよう。

 

そんな感じ

 

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

「竜馬がゆく」、読破

 最近読み続けていた「竜馬がゆく」(全八巻)をついに読破しました。いやー、長かった。この手の歴史小説にはなかなか手を付けずじまいでしたが、読んでみるとかなり面白かったです。また日本の歴史に対する自身の無知も実感し、もっと色々な本を読もうと思いました。

 

 読んでいて考えさせられたのは、竜馬の基本的な態度である「ここぞという場面でしか議論はしない」という姿勢です。作中での竜馬は思想や思念については基本的に話し合っても互いにいやな思いをするだけなのでここぞという場面でしか議論をしません。また議論に勝ったところで相手から無用な恨みえを買うだけと考えています。

 

 最近は議論(ディベート)が非常に重要視されており、なにかと「議論」が行われます。しかし話し合いをしたからといってお互いに納得に至るケースというのはどの程度あるのでしょうか?僕の経験では、ほとんどの場合、お互いに言いたいことだけ言って、同意には至れずに終わることがほとんどです。しかも議論は片方が片方の考えを諦めさせることがゴールと考えることもでき、それが本当に必要だとは思えない場合をよくあります。ビジネスの場などどうしても意見を通したい場合はともかく、一般生活の中の議論はほとんど意味ない気がします。(ビジネスの場においてもほとんどは議論の内容など関係なく、初めから結論は決まっているような気がしますが。)

 

 僕はどちらかというと議論が好きで、結構人に議論を吹っ掛けるようなところがあるのですが、この本を読んでいて反省しました。正直、幕末の風雲よりもなによりもこの議論に対するスタンスが学びになったと感じています。この竜馬の考え方を学習しながら、平田オリザさんの著書である「分かりあえないことから」という本のことを思い出しました。話し合って分かりあうことの限界を示していた本だったと記憶しています。確かに論理的に議論する能力は大切だし、重要ですが、それがすべてとい言うわけでもないと思います。

 

 一方で現実社会で生きていくにはある程度人を説得することも重要だと思います。議論というような「対立の姿勢」ではないやり方で人の考えに影響を与えるにはどのようにしたらいいのか試行錯誤する必要があると感じました。

 

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

 

そんな感じ。

結婚

  先日友人の結婚式二次会に行ってきました。僕の友人の中では初の結婚でした。二人はとてもお似合いでしたし、同級生が結婚したことで急に結婚という事が身近に感じられるようになりました。

  さて、僕は友人の結婚を心から祝福していますが、いざ自分のこととして考えると、結婚の意味とはなんだろう?何のために結婚するんだろう?と考えてしまいます。多分基本的こういう事を考える人は結婚に向いていないと思います。結婚した友人に「何を持って結婚決心したの?」と聞いたら、「そんなの考えたこともない。自然に結婚したいと思ったの。」と言われました。こういう人が結婚に向いていると思います。

  思うに現代においては子供が出来ない限り、特に結婚する必要はないと思います。子供が出来た場合、日本では婚内子と婚外子との法律上の差別が激しいので結婚した方がいいと思います。しかし、それさえ無ければ結婚するメリットって何があるんでしょうか? 

  結婚の一番恐ろしい思う点は、片方の意思で解消出来ないという事です。どっちかが離婚したいと思っても、もう片方が拒否した場合、裁判しないと離婚出来ません。こんな不自由な契約はないと思うんですよね、、なんか結婚することで人生の選択肢が限定されてしまうと感じるのです。

  人生って何があるか分からないし、三十過ぎて突然何か全く別の生き方をしたいと思う人もいると思います。その時結婚してると、結婚しているということが、行動の足枷になってしまいませんか? そんなこと考える奴が変わっていると言われればそれまでですが、こういう点も鑑みれば、子供が出来ないうちは同棲するだけにしておけばお互いに新しい人生を歩みたくなった場合も対応出来るし、こっちの方が良くない?と思います。結婚せずに同棲するだけではダメなんでしょうか?

  まあ、極論を言えばしたい人は結婚する。したくない人は結婚しない。でいいですよね。今回このエントリを書いた理由はですね、結婚する気ないって言うと変な人扱いされるからです。ほっといてって感じ。

以下参考資料

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

結婚の条件 (朝日文庫 お 26-3)

竜馬がゆく

  司馬遼太郎の「竜馬がゆく」という作品を読んでいます。なかなか厚さの文庫本が全八冊。メッチャ長い。読んでも読んでも終わらない。

  司馬遼太郎の作品は非常に詳しく書かれており、当時の時代背景、また登場する脇役達の背景まで綿密に記載されています。しかし僕のように竜馬のことが気になってしまい、脇役の説明を読み飛ばしてでも「竜馬はどうなったの⁉」ってなってしまう人間には焦れったいです。

  でも面白いですよ。オススメ。

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

業界の力の差

  燃料の価格上昇のため漁業関係者が国に支援を求めてストライキを実行したそうです。漁業関係者は前にも燃料費が暴騰した時に国から支援を受けていました。
以下リンク先
http://j.mp/135LM0l


  これって少し考えると妙な話ですよね。だって燃料費の上昇でダメージを受けるのは漁業関係者だけではなく、運送業や工事現場など実に様々な業界が被害を受けます。なのに漁業だけ支援を貰え、他の業界は支援してもらえない。ビックリするほど扱いに差があるのです。

  その理由はおそらく漁業が一次産業ということにあるのではないかと個人的に思います。例えば農業も漁業に負けず劣らずの手厚い支援を国から受けます。TPPの交渉参加を巡っては国内の農業へのダメージが散々問題になりました。一次産業は二次、三次産業より大切にされるのです。これら一次産業の特徴はある地域に密集していることだと思います。そしてさらに従事者同士が非常に緊密に結びついている点も特徴だと思います。何が言いたいかと言うと、こういう集団は政治家が団体票として重宝するグループになるわけです。

  よくよく考えれば、日本の食料なんて大体が海外から輸入しているわけで別に日本の漁業が衰退しても魚は食べられます。それよりもヤマト運輸が値上げした方が経済全体へのダメージは大きいのではないでしょうか?(しっかりした根拠はないです。そう思っただけ。)にも関わらず守って貰える漁業。実は見かけ以上に美味しい商売かもしれませんね。

そんな感じ。

お笑いの分かれ道

  先日はじめてお笑いのライブに行ってみました。四組八人の芸人が漫才とコントを披露し、その後トークショーがありました。そのライブを観て、前からお笑いについて考えていたことの他に新たな発見が一つあったので合わせて書きたいと思います。内容は何が一発屋で終わる芸人とバラエティの司会などを任され長く活躍する芸人を分けるのかということについてです。

 
一、笑いの質
  まず重要だと思うのは笑いの質です。一般的にお笑い芸人の笑いの取り方には二つの方法があると感じています。笑いと嗤いです。前者は純粋な笑い。後者はあざけり笑うことです。前者には知的な要素を含むと思ってください。思わず唸ってしまうような笑いです。後者は間抜けな振りをする笑いや身体の特徴などを弄り、笑いを取る方法です。後者の笑いの本質は「自分(芸人)はあなた(視聴者)より下の存在です」とアピールすることにあります。人間は自分より格下の相手には気を許し、鷹揚になります。おバカ芸人と呼ばれる方々が人気になるのも同じ原理です。
 
  しかし、このような方法で笑いを取っている限り、番組の司会のようなポジションは望めません。テレビ番組の司会はある程度のポジションと考えられ、視聴者としては自分より格下の存在が高給であり、かつ安定したポジションにいるのは不快だからです。よって芸人として長期に渡り活躍したいなら視聴者に「こよ人頭いいな」と思わせるような笑いを取らなくてはいけません。その代表例は明石家さんまさんなどでしょう。ビートだけしはお馬鹿なイメージがあるかも知れませんが、制作した映画が世界的に認められるなどして才能があると認められているので芸能界でも司会等の地位ある活躍が許されるのではないでしょうか?
 
二、トークでいかに笑いをとるか
 先ほど記載した通り、後半はトークショーが行われました。普段のテレビ番組では厳選されたゲストが出演していたり、編集され面白い部分だけが流されているので気になりませんでしたが、このトークをいかに面白く行えるかが、活躍し続けられるかどうかの分かれ道になっていると思います。今回観た四組の芸人さんも漫才、コントは洗練されているのでなかなかおもしろかったですが、事前打ち合わせなしのトークパートになると勢いを失いました。部分的に身内のネタになってしまっている個所もあり、初見のお客には楽しみずらいものでした。
 
 芸能界でもよくよく考えれば長く活躍する方々は次第に芸人とはいえ芸はやらなくなり司会やリポートの中で笑いを取る方向に変わっていくのが分かります。トークは漫才やコントとは異なり、事前の打ち合わせができないためその場の流れを読みうまく面白いことを言わないといけません。これはかなり頭が切れる人間でないとできないことだと思います。
 
 上記の二点が芸人の分岐点だと思います。